ハレの日とケの日

ハレとケという伝統的な考え方がある。

今の若い人にはあまり馴染みのない言葉かもしれないが「晴れの舞台」という言葉なら聞いたことがあるだろう。「ハレ」は儀式や祭などの非日常、「ケ」は毎日の生活である日常のことだ。

昔の人にとって、酒を飲んだりキレイな服を着たりハメを外したり出来るのはハレの日のみであった。昔といっても、明治や江戸まで遡らずとも、ほんの数十年前まではそういう考えがけっこう残っていたと思う。地域などにも依るだろうが、今30代以上の人が子供の時には、外食は特別なものであったし、地元の祭は小さくても特別なものであった。

ところが近ごろはいつでも飲みに行けるし、遊びにも行ける。交通の便が良くなり遠くの祭に行く事も難しくなくなった。かつては決められた時にしかやってこないハレが、望みさえすれば毎日くるようになった。

ハレ麻薬のようなものだ。慣れれば感じなくなり、より大きな刺激を求める。そして本当のハレではない、ただの刺激だけを求めるようになる。そうした偽りのハレは人を疲弊させる。そして、わずかに残されたケの時にそのツケが回ってくる。仕事や学校や家事といった、本来の日常に。そしてまたハレを求める。より刺激的なハレを。偽りのハレを。

だから、いつでもハレを選べる今、人は自らケを選択しなくてはいけない。人にはハレの日よりも多くのケの日が必要なのだ。