持ち上げられる若者と大人の責任

http://toshiyuki-blog.tumblr.com/post/65135052543
リブログ的なのは基本やらないんだけど、ちょっと自分としてもタイムリーな話題だったので。

まず、結果とは何かについて、スーパー中学生、高校生と言われるようになれたということは一つの結果だと思う。なりたくてもなれない人がいるんだからそれはそうなるだけの結果を出したと評価していいと思う。

同様に、株主から評価されたとか、実際に出資を受けたというのも成果だと思う。欲しくても取れない人はいるんだし、チャレンジせずにヤジを飛ばしている人たちと比べたら格段に大きな成果だと思う。

一方で、リンク先のブログで言っているような違和感は私も感じている。ただし、そこで私が指摘したいのは若い起業家ではなくその周辺にいる大人だ。

中学生や高校生が大人に褒められたら当然喜ぶんじゃないだろうか。スーパー中高生はそう言われるだけの成果を出している。問題はなぜ、周りの大人が彼らを評価するのかだ。

これをわかりやすく言うと「使い捨てアイドル手法」と言えよう。その仕組はこうだ。

例えば新しい文学賞を作るとしよう。既に知名度や歴史のある賞と違い、最初はその賞に応募してくれる人なんていない。だから集まるもののレベルは低く、結果メディアにも取り上げてもらえない。
そこで、賞を運営する側のビジネス判断としてはまずは賞のプレゼンスを高めるということが目標となる。ビジネス的に理にかなった判断で、文学の内容よりも賞のプレゼンスを高めるために受賞者を決定する。

そこで使い捨てアイドル手法の登場だ。女子高生に賞を与える。するとメディアが「○○文学賞、受賞は女子高生作家!」と取り上げる。それがスーパー中高生の正体だ。

最近若い人たちと接する事が多い。バイトに来ている高専生、ハッカソンで同じチームになった中学生。彼らは間違いなく優秀だ。それは自分がその年だった時と比較しようものなら恥ずかしくてなにも言えなくなるくらいの違いがある。

だが、そこでチヤホヤされて、アイドル的に消費される存在にはなって欲しくない。チヤホヤされたアイドルは、新鮮さがなくなると淘汰される。でもいい時の、チヤホヤされていた時のイメージが忘れられなくてそこにしがみつこうとする。清純アイドルが脱いだり、イケメンアイドルがキモ役をやったり、芸能界では当たり前のように起こっている。

十で神童十五で才子、二十歳すぎればただの人、と言う諺もあるように、若くて才能のある人が無難な存在になってしまったり潰れてしまう例というのは歴史上枚挙に暇がない。

サッカー界では「マイアミの奇跡」と呼ばれる伝説的な試合がある。23才以下とはいえ日本代表がブラジル代表に勝利した、まさに奇跡的な出来事だ。この時、誰もが喜び、将来の日本代表の明るい未来を見た気がした。

ところが、当時のメンバーのその後の活躍は期待されたようなものではなかった。この世代はJリーグ開幕とほぼ同時にプロ入りしたのもあってクラブチーム時代の苦労も味わっていないこともあり、チヤホヤされることになれてしまったのだ。

もちろん、その後大活躍した選手もいるから個人の問題だと言ってしまうことも出来る。でも、日本サッカーを強くしよう、業界を盛り上げようと思ったのであれば、そこで消費されないような手を大人が(この例で言えば日本サッカー協会なりが)なにか手を打つべきだったのではないだろうか。

私は大人として、老害と言われようとも、能力のある若者を消費するようなことを、少なくとも自分が関わる業界、目の届く範囲においてはさせたくないと思う。